人工樂園さんからのTBで、25日に行われたという下関市の戦時訓練を知りました。
驚いて下関の友人に電話をしましたがちょっとつかまらず、この件はお預け。
六連島は、潮の速い関門海峡で、水先案内を受けるまで停泊する小さな島だ、とは釣り好き人の話し。
近いうちに下関に行ってみようと思っていますが、その時は、またご報告します。
なにしろ今、手を離せないことを抱えて、どうにかこうにかブログの方は更新していますが、とてもじゃないが下関までは行ってられない、という状況です。
さて話しは変わりまして、ローマ史を読んでいると、それも興隆期の歴史ではなく衰退期の歴史を読んでいると、日本の現状が連想されて、なんとも複雑な思いに駆られます。
帝国が徐々に蝕まれて崩壊していく様が、書物にはいとも鮮やかに描かれていますが、さて、当時のローマ市民たち自身は何を想い、何を感じていたのだろうか、と思いをめぐらしながら読み進めていくのですが……。
暗愚の皇帝、私利私欲と保身に走る貴族や宮廷官僚、 パンとサーカスにうつつを抜かす民衆、帝国内の結束に利用されて絶えず宗派間の教義争いを続けながら も最後には帝国で唯一の勝利者となる(キリスト教という)宗教など、いまの日本の世相と重なるところも多く、少々ペシミスティックな気分になってしまうと ころがイヤですね。
西方世界における帝国崩壊の序章がすでに始まっている5世紀のローマ市で、一番の金持ちは教会でした。政治的な理由 も含めて皇帝たちには数々の高価なものを寄進され、信徒たちからも献金を受け、さらには税も免れて、豊かな所領を持ち、教皇たちはずいぶんと豪奢な生活を 送っていたようです。
ですから教会は、いわゆる‘蛮族’たちの格好の餌食にもなるわけですが、不死鳥が甦るように、また財を貯えるわけです。
国破れて、教会有り、というより、国破れて‘宗教有り” というところでしょうか。
それに、帝国が衰退していくと、帝国内で“寛容性”がどんどん失われていきます。
それがまた悪循環を呼び、さらに非寛容の精神が国を覆う。
そこであたら失わなくてもいい人材を失ってしまったり……。
なんだかこれも今の日本と重なります。
非寛容と排除の論理が吹きすさぶ世の中の危険性を感じます。
陰では得をして笑っている人もいるでしょうに。
議員の劣化、人材の枯渇…… 厭な材料がたくさんありますが、それでも諦めてはいけない、と自分で自分に言いきかせなくては。
手が空いてから、記事もゆっくり書きますね。
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岸がつき、小泉がこねし改憲もち、座りしままに喰らうシンゾー
