「これまで当局は、家族への精神的ダメージを軽減するために被処刑者の詳細を公表することは頑として拒んだ。
人権グループは、死刑が存続する数少ない工業先進国のひとつである日本での死刑執行をめぐる秘密主義を批判してきた」。
そんな中で「8月に就任した」ばかりの鳩山法相が被処刑者の名を公表することに決め、これをアムネスティ・インターナショナル日本は「この死刑執行の秘密 主義からの脱却は評価します、と声明で述べた」と説明(ただし実際の日本文は「死刑制度をめぐる秘密主義に風穴をあける動きがあることは評価します」と なっている)している。
特に「絞首台に連れて行かれる直前まで受刑者に執行期日が知らされないこと、執行の後で初めて受刑者の家族に連絡がいく慣行」が批判されているが、「最近の世論調査では、死刑に反対する日本人は10人に1人にもならないことが示唆された」。
さらには同じ日付で倍以上のスペースを使い、日本の死刑制度の過酷さをレポートしています。見出しは「日本の死刑執行に関する秘密主義」。
これによると、死刑囚には刑の執行についてぎりぎりまで教えないのは、国際人権規約第2・7・10条に違反しているということで、国際社会から非難されてきたということです。
以下はその訳。
死刑の確定から執行まで、平均で7年11ヶ月の時間があるが、正確な数字を得るのは難しい。
囚人たちは、過酷な制度と死刑に対する恐怖感にいつもとらわれている孤独な監禁状態の下で生き、その日その日が最後の日になるかどうか知ることはない、とアムネスティ・インターナショナルは語る。
日本のメディアでは、死刑囚が「トイレサイズの小部屋」に拘置される様子が伝えられている。
死刑囚のほとんどは、刑務所ではなく拘置所に拘置され、他の受刑者と比べても認められる権利は少ない。
1週間に2回の運動時間(夏期は3回)が許されるが、居室では限られた運動さえも認められることはないとレポートされているが、実際の状態を確認するのは難しい。
各拘置所の所長の考え次第だ。
何年も独居拘禁に置かれている死刑囚の多くは歳をとり、最年長は70年代初めに強姦と2件の殺人で有罪判決を受けた石田富蔵86歳であるが、執行される前に亡くなる人もいる。
現在日本の死刑囚は104人。今年はこれまで9人に執行された。
1998年までは死刑が執行されたことさえ法相が認めず、ただ年ごとの執行数を発表しただけであり、この10年は、各執行日に、執行の事実と人数を報じてきた。
したがって今回、金曜日の死刑執行で受刑者の名前が初めて知らされたのは小さな前進だ。
鳩山法相はこれについて、「死刑が適正に行われていることを犠牲者遺族と国民に理解されることが必要」と説明した。
アムネスティ・インターナショナル日本は、有罪判決を受けた殺人者の死刑執行の決定に「強く抗議する」しながらも、氏名を公表するという政策の変化を認めたが、死刑廃止への道のりが遠いことをつけ加える。
絞首刑が執行される拘置所の外では、ろうそくを灯して行う徹夜の祈りはなかったが、驚くべきことではない。誰一人として、受刑者の家族でさえも、金曜日の朝に執行されると知らされなかったのだから。
死刑執行をめぐる秘密主義の壁はまだ無視できないほど厚く、残酷であるばかりか、死刑問題について議論することもままならないようにしている。
国会でも死刑について質疑されるのは稀だ。
世論調査では、死刑制度に反対する日本人はわずか6%。これは死刑囚の処遇状況をほとんどの人が知らないせいだ、と死刑制度廃止の運動をする人たちは言う。
金曜日の死刑は、ここ日本では大した問題にならなかった。
他の国々では、キリスト教会の動員で死刑反対運動が行われるが、日本の宗教団体は反対運動はしないことを選択してきた。
日本の外相は、この日執行された死刑をめぐる状況について、BBCの質問にしぶしぶながら答えてくれた。
英米に比べると、日本の投獄率ははるかに低いことが指摘されるべきだ。
日本の司法制度を批判する人たちは捜査が自供に頼っていることを憂慮しており、容疑者を無理やり自白させたという申し立てもある。
ここ日本で死刑に反対する人たちは、無実の人たちが死刑になることを防ぐ手だてが十分ではない、と語る。
という具合に、かなり詳細に私たちの知らないようなことまで報道されています。
死刑制度に反対する日本人はわずか6%、と伝える根拠は2004年12月の世論調査でしょう。
死刑制度に関して、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」、「場合によっては死刑もやむを得ない」という意見について、
「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と答えた者 6.0%
「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた者 81.4%
「わからない・一概に言えない」と答えた者 12.5%
となっています。
そしてこの数字は、政府の死刑制度維持の姿勢にも、11月の国連での死刑執行停止決議の採択に反対する説明を裏付けるものにもなったようです。
でも、東京拘置所のそばで死刑について考える会(そばの会)ではこの設問の仕方がおかしい、まるで誘導尋問のような設問だと疑問を呈しています。
つまり、この3つの設問内容を、
「どんな場合でも死刑を残すべきだ」
「場合によっては死刑を廃止してもよい」
「わからない、一概に言えない」
とすれば、結果は異なっていたのではないのか。
なぜ、「死刑制度に賛成ですか、反対ですか」という端的な設問にしないのか、と批判しています。
こうした世論調査方法、またBBCの記事でも言われた秘密主義、法相らの日頃の言動からも、日本政府には死刑を廃止する意思がまったくないことがうかがわれます。
それどころか、国民の間で死刑制度について考え議論することさえ厭うような姿勢も見られます。
11月の国連での死刑執行停止決議の採択に反対したのは、米国への右へ倣えだったのでしょうか?
ただし常日頃米国に追随している国連での日本政府の行動は、ときにはその米国さえも軽く跳び越えてしまうことがあります。たとえば79年のチリの人権を問題にする国連総会決議に日本が棄権したとき、時のカーター政権はこの決議に賛成しています。
そんなことを知ると、いったい政府は何を考えているのだ? と疑問が湧いてきます。
もともと執行日をあらかじめ知らせておくと、当日刑務官が病気を理由に休むことが多かったとか。
私は以前、死刑執行に携わる人たちの過酷な体験について、「死刑廃止演説から考える――まとめ」でも触れました。
特に革命期パリの処刑人サンソン家の人びとの例をあげて、
「まるで芝居を見るように処刑を楽しんだ人たちのおぞましさ、握手を求められても応じず、己の汚れた手でけっして一般の人たちに触れることがなかった処刑人の罪悪感。このどちらも、私たちには耐えられません。
私たちの心のありようは、100年や200年前に生きた人たちとは異なっていますし、死刑も人の目の届かないところで行われています。血を見て激昂する民衆のぞっとするような姿はありません。
自ら手を下さない裁定に示された人間の残酷さは、今、薄められてはいますが、なくなったわけではありません。私たちはこれを克服する必要があるのではないでしょうか」
と考えることに変わりはありません。
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