「世界の全人口のうち、最も裕福な国々に住む上位5分の1の層と、もっとも貧しい国々に住む会5分の1の層との所得を比較すると、1960年には30対1だったが、1995年には74対1にまで格差が広がった。にもかかわらず、世界銀行やUSAID、IMF、国際「援助」に関わるその他の銀行、企業、政府は、自分たちは立派に役目を果たしており、状況は改善しつつあると、私たちに語り続けている」

 とは、『エコノミック・ヒットマン』の中の著者ジョン・パーキンスの言葉。

 1995年が74対1ならば、それから10数年後の今は、さらにこの何倍も格差は広がっているだろう。

 *なお、USAIDとは米国国際開発庁(U.S. Agency for International Development)の略。
 日本ではほとんど知られていない組織ですね。

 そもそも社会主義が内部から崩壊したのであって、けっして資本主義の勝利だったわけでないのに資本主義が勝利したと勘違いしたことから米国の、そして新自由主義の暴走が始まった、という寺島実郎さんの言葉を思い出そう。

 グローバリズムの合い言葉で新自由主義の嵐が吹きすさび、“自由競争”のかけ声で新たな秩序ができあがる。

コーポレートクラシーは陰謀団ではないが、そのメンバーたちは共通の価値観と目標を持っている。コーポレートクラシーのもっとも重要な機能のひとつは、現状のシステムを永続させ、恒に拡大し強化することである」

 とはジョン・パーキンスの指摘するところだ。 

 ふとここで、妙なことに気がついた。

 保守を標榜し伝統を重んじる日本会議の草の根会員やその考えに共鳴する人が、格差や自由競争を声高に肯定することだ。
 いい悪いは別にして、人間は平等じゃない。だから格差があって当然だ、と主張する。 
 保守を標榜し伝統を重んじるものが、新自由主義を是とする。

「平等」とか「平和」とかは共産主義の象徴として目に映るらしい。
「平等」と「平和」は共産主義だからダメだ、と。
 だからその反対の自由主義がいい、というとても単純明快な論理。自由主義がいいのだから、新自由主義はもちろんいい、ということなのか。

 もともと人間は平等じゃない、だから格差があって当然だ。
 弱肉強食で、弱いものが喰われる、ただそれだけのことだ。

 こううそぶいて新自由主義を肯定しながら日本の伝統を叫ぶのだが、あなた方の言う伝統は単なる明治以降の伝統ではないか、と言ったら、怒るだろうか。

 エクアドルではアマゾン川流域の石油目当てに米国の石油会社があの手この手で先祖伝来の土地から追い立てようとして先住民の生活を脅かし、その文化を破壊している。またエクアドル政府はそれをまるで支援しているように見える。まさに伝統の破壊だ。

 地球をグローバリズムの価値観で均一化し、一握りの富めるものとその他大勢の貧しいものを創り出す新自由主義は、まさに伝統破壊主義ではないのか。

 これに先住民の人たちは怒った。2003年、3万人以上のエクアドル先住民の代理人としてアメリカ人弁護士団がシェブロン・テキサコ社を相手に10億ドルの訴訟を起こしたそうだ。

 ついでにいえば、このシェブロン・テキサコ社の無法ぶりはエクアドルだけにとどまらない。
 自国アメリカの市民が親しんできた川を汚水の流れに変えてしまったことで、環境NGOにより訴訟を起こされている(こちらの記事)。

 さて前述のエクアドルでは、1968年にアメリカ、テキサコ社がアマゾン川流域に油田を発見し、今では国際融資によって13億ドルかけた5,000キロに及ぶ新パイプラインが熱帯雨林を破壊して建設されたという。
 
 油田発見以来、

 生活困窮者の割合を示す貧困線: 50% → 70
 不完全就業者、失業者の割合: 15% → 70
 国家の負債: 2億4000万ドル → 160億ドル
 最貧層のために配分される国家予算の割合: 20% → 

 という具合に、人々の生活は困窮の度合いを深めている。おまけにこれは、世界を眺めれば、ほんの一例にすぎない。
「エクアドルが対外債務の元金を返済するには、石油会社に雨林を売るしかない」という。
 熱帯雨林を売れば売るほど石油会社は儲かり、さらに自然破壊、先住民の文化・生活の破壊が進む。
 世界をグローバリズムの価値観に基づいて均一化する新自由主義は、まさに伝統破壊主義ではないか。

 私たちの国でも、70年代とコイズミ改革を経た現在を比較すると、興味深い数字が出てくるに違いない。

 で、話しを元に戻すと、福祉や環境問題を語ると共産主義だ、と一刀両断し、平和と平等をも否定する日本会議の考えに共鳴する人たちは、同時に「資本」という語が嫌いなようだ。

 経済で考えれば、共産主義の対義語は資本主義だと思うのだが、政財界から教育界、そして言論界の一つの極を率いる日本会議のリーダーたちは、資本主義という語は口にしないのだろうか。

 彼らは、日本のコーポレートクラシーの利益拡大のために伝統を引っぱり出してきただけではないだろうか、と思う。

 グローバリズムの一翼を担って儲けに預かろう、という資本主義的姿勢一辺倒の姿を見せないために、伝統! と叫んで保守を自認する人びとの支持をとりつけようというのかな?

 それとも、福祉を切り捨て、戦争も厭わず、自国の若ものを戦地に送り出すのもいっこうに構わない姿勢に対して、また自国ばかりか他国の人びとをも踏み台にしようする行為に対して罪滅ぼしの気持で、伝統! と大きな声を張りあげるのかな? 
 それにしては扱われる伝統があまりに意図的に選ばれているような気がするのだが。

 *追記;

 日本会議は日本の右翼運動の中核を成し、さまざまな団体がここから出てここに戻ってくるプラットホームのような所。伝統を守る、と訴えながらナショナリズムを鼓舞し煽っている。

 私から見れば、コーポレートクラシーが推進する新自由主義と、伝統、伝統と声高に主張するナショナリズムとは相いれない。
 でも実際にコーポレートクラシーを形成する人の一部と日本会議を引っ張っている人たちとが重なり合う。

 これはどういうことなのだろう?

 単に無頓着、という人もいるだろう。その代表がアベ晋三氏か? そのために国内の右派向けの言動と、訪米したときの発言、行動が矛盾したりする。ダブルスタンダードだ。

 無節操ともいえる。
 ナショナリズムは心情に訴えるところが多いし、誰でもが抱えるアイデンティティを求める心を刺激する。
 その上で、自身の生まれた環境から当然生じるコーポレートクラシーとしての自覚で、いとも簡単にナショナリズムと新自由主義は折り合い、自分の中で同居する。

 で、アメリカならこの新自由主義とナショナリズムは矛盾せずにすんなりとひとりの人間の中に存在するのだろうが、私たちの国の場合、グローバリズムの旗を振りかざしてアジアへ進出するときは問題なくとも、アメリカと向かい合ったときには、その矛盾が露呈する。
 
 それでいつか私は「引き裂かれる」という語を使った。

 桜井よし子氏ら日本会議の論客は、おそらくそのことを十分承知しているのだ。
 彼女自身は用意周到に十分注意を払って、自分の置かれた立場の上で踊っている。

 でも草の根会員にはその自覚はないのかもしれない。
 むりやり二つを結びつけるから、論理は飛躍し、暴言になるのかもしれない。
 
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