Like a rolling beansさんの「学習指導要領に急遽愛国心育成追記・根津先生の椅子を引っ張り転ばせる都教委」を読んで、椅子から転がり落ちるほど驚きました。
まだ子育て真っ直中らしいRolling Beabさんの教育関連エントリーにはいつもはらはらしたり、怒髪天を衝くのような心境になったりして、いろいろ教えていただくのですが、仮にも子供たち の教育を主管する教育委員会で、こんな嫌がらせや暴力を受けるとは、と絶句です。
それにしても、 君が代を歌わせ、日の丸を掲げれば、期待される「愛国者」ができあがると国歌国旗を推進する方々が考えるとすれば、それはとてもおめでたい、とは言いませんが、実に誤解も甚だしいものだ、とひと言いいたいですね。
もちろん、愛国心教育を唱える方々は、単に歌わせて掲揚させることだけを念頭に置いているのではなく、もっと日常的な細々したことまでも口出ししようと手ぐすねを引いて待っているに違いありません。
オウム真理教の浅原教祖は、子ども時代、ロボット王国の王様になりたいようなことを文集に書いていたと記憶していますが、権力欲にあふれる人というのは、その他大勢をロボットのように自分の思うままに扱いたい、という妄想に駆られるようです。
学校教育の中で愛国心教育を浸透させようと日夜励んでおられる方たちも、子どもたちを、将来の大人を、未来の日本の国を背負って立つ人材を、愛国心に満ちた納税者/有権者に育て上げようと懸命なのだ、と一応理解しておきます。
思えば、100年から何十年か前の日本であまりにも成功体験を持ちすぎたために、こうした人たちは愛国心教育に邁進すれば愛国心に満ちた人間ができあがる、とストレートに結果と結びつけすぎるのではないでしょうか。
おまけに“愛国心”という言葉に名を借りた極めて利己的な思いで国歌国旗を推進させようとしていますし。つまり、勝手に“愛国”を名乗っていますが、その 実、自分たちの利益のために、自分たちの、もしくは先代の名誉を回復したいがために“国”を引っ張り出してきたに過ぎないのでしょうから。
おめでたい庶民は、“国”だ、“愛国”だ、といえば、適当にそれぞれが思い描く“国”として解釈してくれる、とほくそ笑んでいるのかもしれませんが。
海の中に国境が引かれた地理的存在の日本ではなく、一人ひとりの胸の中にある日本は、それぞれ異なるわけです。そんな人々の胸にある郷土としての国への思 いを、より高次にあるものとして見せかけた、“日の丸と君が代”を死守する日本を尊ぶ心にすりかえようと、あの手この手を繰り出す人たちがいるわけです。
なぜ、わざわざそんなことをするのか? と考えれば、かつて日本で「国体教育」が吹き荒れていたとき、どんな人たちが“儲けた”か、私腹を肥やし威張りちらして国民を操ったか、考えてみればわかること。
日の丸・君が代はリトマス紙や判別式のごとく、自分たちの命令一下で動く人間かどうか、見きわめるのにとても便利で有効な道具です。
おまけに日の丸・君が代は、非常に分かりやすい道具として、自分たちの利益と名誉のために国民を動かす力になることを、戦争の時代を通じて学習した人たちがいた、ということです。
でも、いつも不思議に思うことですが、そんな日の丸・君が代死守を狙う人たちは、子どもたちの心を自由に操り、思うように捨て駒となって体制を支えるような大人に育ってくれる、と本気で考えているのでしょうか。
チャパツにして亜麻色やブロンドに、あるいは白髪を黒髪に見せかける際、まずは薬液で髪の構造の内部の色を抜くようにゆとり教育で子どもたちをふるいにか け、実直に唯々諾々と為政者の言に従う人間を大量につくりだしたから、今度は愛国の色で染め上げれば、愛国者の群れのできあがりだ、と考えているのでしょ うか。
考えているとすれば、子どもを知らない人たちだ、と思わざるをえません。
いったい、愛国心教育を唱える人たちは、子どもを自らの手で育てたことがあるのでしょうか。
いえ、育てたことがなくても、星の王子さまのいうように、大人もみんなかつては子どもだったのですから、自分自身が子どもだったときのことを思い出せばいいのです。
子どもは親の思うとおりには育ちません。
有言・無言で強要しても、どこかで破綻が来ます。
その破綻がまだ世の中と折り合いがつけられる段階で明らかになれば幸いです。本人も周りも人生のワンステップとして受けとめ、次の段階へと向かうプラスのエネルギーも生まれてきます。
でも大人が追いつめて子どもの生きる力が奪われたとき、どんな事態になりうるか、数々の事件が明らかにしているように思います。
そしてこの二つの間には、無数の子どもたちがひしめいています。
みな、プログラムを入力されたロボットではありません。
命を持ち、従って生きようとする力を持った生身の人間です。
子どもは誰でも愛されたいと無意識のうちにも思い、周囲の大人に(だいたいは親に)愛を求めます。親もそれに応えようとします。さらに親は、子どもにさまざまな期待をかけ、子どももそれに応えたいと思います。
ところが何らかの原因で子どもと親の思いがすれ違いになって、この相互関係がうまく働かないことがあります。
そのひとつが、親の期待が大きすぎて、子どもが頑張っても頑張っても親の期待に応えられないと思ったときです。
いいかえれば、親の“いい子”を求める姿勢に子どもの心がついていけない時、いい子になろうと努力をしていた子どもは諦め、追いつめられれば、時には“悪い子”を気取り、時には心が壊れるたりする。そんなことがあるのではないでしょうか。
社会が豊かになって生活にもゆとりが出て、少人数の子どもを大切に育てようという気運が社会全体にみなぎってきたとき、大人たちはどうしてきたでしょう か。いきおい、子どもたちに自らの夢を託し、夢とまで大げさなものでなければ、自分のできなかったことを子どもたちに託してこなかったでしょうか。
人間の業、といってしまえばそれまでですが、どうもこの親のやる気に気圧された例が多いような気がします。いじりすぎて子どもがスポイルされたような。
これがすぎると、子どもの生きる力さえも奪われかねない、そんな例まで。
子どもは実に千差万別。いろんな顔と反応を見せます。
でも親の期待に応えられずに自尊感情が低下したり奪われたりしたとき、必死になってそれを取りもどそうとするのは同じ。けれどそれも失敗に終われば……。
(いわゆる“自虐史観”という言葉を使用して歴史の見方を非難する人たちは、自らの自尊感情が低下した状態を歴史に重ね合わせているだけではないか、と常 々考えております。ですから、どなたかは知りませんが、そんな人たちが声高に叫ぶ歴史の修正を“自慰史観”と呼んだのは見事だと思います)。
さあて、話しを元に戻して愛国心教育のことを考えると、日の丸・君が代死守を目論む方々の思い通りには、なかなか子どもたちはならないぞ、ということなのです。
ましてや憂国・愛国の袈裟をまとっただけのご都合主義の方々の思い通りにはならないぞ、と。
しかしオウムのように、その他の宗教団体のように、某巨大宗教集団のように、信者をロボット化することは現実にありますね。
日の丸・君が代死守を奉じて自らの属する集団の利益を図ろうとするのは、もしかしたらそういうことかしら?
入学式・卒業式等各種イベントはそのためのイニシエーション。戦前の天皇・皇后のご真影の代わりに、日の丸を掲げて君が代を、口をこじ開けてでも歌わせる。
そんな宗教国家をつくろうとしているのかしら?
戦前の日本は国家神道を奉じたある種の宗教国家だったと考えますが、今の日本でそんなこと可能でしょうか。
富の極端に偏在する社会でその状態を文句も言わずに受け入れさせるために、この宗教国家はまことに都合よく有効に働いたと思いますが、そんな状態を再現するために文部科学省は動いているのでしょうか。
だとしたら文科省は“反教育省”だといえますね。ちょうど外務省が“戦争(好き)省”ともいえるように。
文科省の目指すところは自立した教育ではなく人間のロボット化でしょうから。
しかしロボット化するにはその前に脱/奪人間化しなければなりませんね。そして脱/奪人間化した無色透明の僕/私は、時として暴走。
ううっ、ちょっとSFじみてきました。
悪い夢は見たくないなあ、と思いながら、そんなSFじみたモーソーで遊ぶと、想像されるのは愛国心を強要された子どもたちが、ベルトコンベアーの上を次々と送られていく図。
エリート競争に打ち克って、この国の政治・経済・社会をリードして楽しき日々を謳歌する人の群れと、黙々とその群れに付き従い、支える人々の群れ。
いやいや、そんなことあるわけない、と思わず首を横に振る。
現実の世界では、親も子ももっと覚めた目で世の中を見ていますよ。
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