昨年統一地方選の前、石原都知事の配偶者連れの豪遊が問題になったとき、「政治が矮小化する」と都知事“擁護”よりもむしろ豪遊“奨励”のような発言を金美齢女史が某雑誌でやってましたね。
まあ、こうとでも言わないことにはなすすべのないほど石原都知事が税金を湯水の如く使って無茶な豪遊をしていたのは事実だったともいえますが、石原援護人脈の怪しさとえげつなさ、卑しさをイヤというほど見せつけられた、と脳裏に刻み込まれたものです。
これと同じかそれ以上に、怪しさ、えげつなさ、卑しさを思わせたのが、24日の毎日紙上での竹中平蔵の発言。(地方は)「歳出削減に もっと努力せよ」です。
なぜでしょう?
だいたいこの方、政治家として風上にも置けない人間であることは、例の住民税未払いやスリード社の問題によく表れています。
改革をいうものは、先ず自らの身を潔白に保って既得権益に切り込むべきでしょう。
でも自らを安全圏に置いて自己の利益を図ることに長けたこの方は、「改革」政策をリードしていったものとしての矜持にあまりにも欠けていました。
この意味で、人間的に信用できない、というのもひとつ。
以前のエントリーで北九州市の無駄遣いの実例をちょっと取り上げましたが、これはきっと元建設官僚末吉市長(当時)が分捕ってきた補助金の結果。
この“ひもつき”補助金を取れる取れないで自治体の長の優劣を競うのは止めて欲しいというのは、つねづね考えてきたことで、“地方分権”という概念には私 も賛成ですが、私が思い描く“地方分権”と竹中氏らの“地方分権”とは、どうも中味が違うのではないか、という気がします。
それに、またしても「競争」。「地方分権というのは、自由を持つとともに責任を担って競争する制度だ」と語っています。
なんだか、競争すればすべてが良くなるような感覚と考えを、この竹中氏はお持ちのようです。
なるほど、厳しい競争を勝ち抜いて出世の階梯を駆け上ってきた氏ですから、競争に負けたりドロップアウトしたりするのは自業自得とか自己責任、ということになるのでしょうね。
でも政治の見地からちょっと離れて考えてみると、氏のこうした感覚はずいぶんと傲慢なものだとすぐ分かります。
人間はこの世に生を受け大人になっていくのも自分ひとりの力によるものではありませんし、成長後の人生でも他者と支え合うことの大切さは誰しもが経験することです……自覚のあるなしにかかわらずです。
私たちはいつも他者に助けられながら、いいかえれば他人に迷惑をかけながら生きている、という側面に気づき、それでも何とか自分の足で立ち、自分の力で未 来を切り開いていこうとする、そんなぎりぎりのところで生きています。そんな生き様から、その人の格のようなものが決まるような気がします。
私の知っているひとりの女性。離婚後、経済的にはけっして豊かではありませんでしたが、懸命に働きながらふたりの子どもを育て上げました。
実家に援助してもらおうとすればできたけれど、それはイヤだった。子どもを持ったひとりの人間として、親としての矜持がそれを許さなかった、というのは本人の言です。
竹中氏から見れば、おそらく取るに足らないような、無名の女性、ひとりの庶民です。が、この心持ちは、税を回避するための米国への住民票移動、スリード社との怪しげな取引等々に手を染めた氏のそれよりも、ずっと高尚なものではないでしょうか。
氏の社会的地位も報酬も財産も、この女性とは比べものにならないほど高く、多いでしょう。
競争の勝者としてそれくらい当たり前、と考えているからこそ、競争至上主義的発言がよく口から吐き出されるのでしょうね。
とはいっても、氏の出世のきっかけとなった論文の盗用問題にも表れていますが、水が低きに流れるように、人もとかく安易に流れやすい。ましてや氏の主張する競争を唯一の発展原理としたような社会でいったいどんなことが起こるか、想像するとそら恐ろしいものがあります。
生意気盛りの中高校生が唱える弱肉強食論とこの方の競争論とが、いったいどれほどの違いがあるでしょう? ありはしません。
他人を出し抜いてでも競争に勝とうとする意志を貫いて現在の地位を獲得した人のお守りが、唯一「競争神」もしくは「競争心」なのかもしれないけれど。
