いきなりだけれど、戦後日本が経済力をつけて豊かになった60、70年代以降、つまり高度成長期以後、日本人の次世代を育てるという行為、つまり“子育て”のキーワードは、「厳しい」と「要求」だった、と私は勝手に思っている。
もともと日本人の子育てには、「児やらい」という考えがあった。
……たしか虎のお母さんが、仔虎の食物に夢中になってゐる隙を見て、そっと往ってしまふことが書いてありましたが、日本でも熊は仔熊を三才までは連れてあるくことがあって、四歳の春の雪解けに穴をでるとき、その子と別れることになってゐます。
……
人を成人にする大切な知識の中には、家で与へることのできぬものが実はいくつもありました。さういふ点については世間が教育し、また本人が自分の責任で修 養したのであります。ヤラフといふのは何か苛酷のやうにも聞こえますが、どこかに区切りをつけぬと、いつまでも一人立ちができぬのみならず、親より倍優り なものを作り上げることもできなかったのであります。
……
(大藤ゆき著『児やらい』の序にある柳田国男の言葉)
乳幼児の死亡率が異常に高かった時代、育てる、と決めた子を、産みの親ばかりか名付け親、拾い親等々いろいろな大人が手をかけ、気をかけて、「7歳までは神のうち」というように、いつ忽然とこの世から消え去るか分からない子どもを、大切に育てた。
そんな大事だいじに育てた子どもも、時期が来たら追い立てるようにして突き放す。これが「児やらい」だ。
これについて柳田国男は、
「ちゃうど今日の教育といふものの、前に立って引っ張って行かうとするのとは、まるで正反対の方法であったと思はれる……」
「あなた方は『児やらい』などといふ本を書きながら、はたしてあるときが来たらヤラフことができると思ひますか。できなくとも私はちっとも怪しみません……」
とも述べている。
ある時が来たからといって我が子をヤラウことがはたしてできるとお考えですか。まあ、できないと考えても不思議ではないのですが、と問いかけながら柳田 は、昔と今、(時代によって地域によって)人によって、実にさまざまな児やらい、子育てのありかたがある。それを伝えるだけでもいい、と著者たちに言葉を かける。
この柳田の問いを自分に向けてみる。
はたして私は、ヤラウことができると思うか? 答えは、“No”でもあり“Yes”でもある。
自分はヤラフことがでたか? と考えてみると、多分、私ひとりでは“No”だった。“Yes”といえるのは、子どものおかげだ。つまり、もう僕を/私をヤラッてくれ、と子どもたちが私に教えてくれたのだ。
子育ては一方的に親や他の大人が前に立って子どもたちを引っ張っていこうとするだけではない、あくまでも子どもとの互いの働きがけで進んでいく。
児やらいのためには、親は子どもの声に耳を澄ますことが必要なのだ、と思う。
では自分は、十分子どもたちの声に耳を傾けてきたか? と考えるとどうもYesとは答えられない。でもどうにかヤラウことができた。これも子ども自身の必死の訴えのおかげだ。
児やらいとは、それほど難しい。
特に現代において子育ては、ある時期が来たら、というより「不断のやらい」だと思うから。
昔はそれほどややこしく考えなかっただろう。それなりの習俗があって、みんなといっしょに従っていたら良かった。親は親でとにかく生活を維持しなければならなかったので、そんなに子どもにかまっていられるか、というところか。
私の世代は、敗戦直後の混乱が次第に落ち着いて復興に邁進しようとする時期に生をうけ、そのまま日本の経済と社会が伸びていくのに歩を合わせて育ってきた。経済成長の恵みを全身で受けて、あれよあれよというまに大きくなったのだ。
この間、「ある時期が来たらヤラウ」という習俗はいつの間にか形だけを残し、まったく個人的な問題としてそれぞれの家庭に任されることになった。
ところで私の子ども時代、昭和30年代には、都会にもまだまだ牧歌的な風景が広がっていた(私は横浜育ち)。
牧歌的、といえば聞こえがいいが、要は、生活するのに忙しい親を尻目に、大人の目の届かないところで暗くなるまで思いっきり遊んだ、ということ。
親の口出しはあまり受けず、失敗もたくさんして、恥もいろいろかいて、いつの間にかヤライも済み、大きくなったといえる。
日本人が高度成長を謳歌しているとき、ベトナム戦争はますます激化していった。
南ベトナム、ゴジンジェム政権の腐敗、思想犯と思しきものたちの通称「虎の檻(おり)」への収容(中には3才の幼児までいたという)と拷問、ソンミ村の虐殺等々が報じられるたびに、若い正義感は燃えたぎる。そんな時代だった。
そして大学に入った翌年には、大学紛争が私たちの所にも及び、学部封鎖・大学封鎖に突入。
あの頃、パリではカルティエラタンの「5月革命」が、アメリカでは映画『いちご白書』に描かれた世界があった一方で、中国では紅衛兵旋風が吹き荒れていた。
(文化大革命の具体的なありさまは、映画『芙蓉鎮』からもうかがえる)。
さて、このところ、ブログ界の片隅で、この時代のことが、正確に言えば連合赤軍への言及について問題になっていた。
あくまでもノンポリとして4年間を過ごした私も、いちおう同時代を生き、あの時代の空気を吸った、ということで少しぐらいの発言は許されるかな。
私は地方で学生時代を送ったが、同級生や友人には東大安田講堂に立てこもったメンバーがいた。
地方といっても、戦後の一時期、国立大にあるまじき不正入学に某政治家が関わっていたという問題などもあって、東京には比べようがないものの、けっこう学生運動が先鋭化。
中核派が本部占拠をしたとき、当時の資料が発見されて足がガクガク震えた、という話しも聞こえてきたが、これについては真偽のほどは定かではない。
まあ、そんなことで、大学紛争の中でこの不正入学問題は公然の秘密のごとく一般学生の間でも語られるようになって、私も知ることになった、というわけ。
大衆団交や学生大会がしょっちゅう開かれ、異議なし! とか、ナンセンス! 自己批判せよ! といった語がよく飛び交っていたが、この自己批判せよ! という言葉も、この時代を切りとったときに出てくる言葉の一つ。
そしてこの言葉が次の団交や学生大会で誰に向けられていくのかは、まるっきりノンポリの私には予測不能だった。いや、ノンポリでなくても、予測はできなかったと思う。
若ものの持つ正義の刃は切っ先鋭く他者の心を切り裂き、ぐいぐいと食い込むもの。
昨日、自己批判せよ! と先頭に立って叫んでいたものが、今日は自己批判を要求される側に立たされたとしても、不思議はなかった。
私よりも何年も前から学生をしていて熱心な運動家として学内で有名だった人は、ある日、教授から食事をおごられて変節した、ということで非難・糾弾された。
新入生歓迎コンパにやってきて、ぐるりと中腰で回って「マ~ルクスしゅ~ぎのなんたらかんたら」と歌いながら踊り、新入生の私の眼をまん丸くさせた人だっ たけれど、それ以後学生運動の表舞台から姿を消し、私が卒業して何年もたってから、京都のお寺で雲水をしてる、という情報が入ってきた。仏の道に入って、 救われただろうか、どうだろうか。
当時学生運動をしているものたちの中には親から仕送りを止められた人がたくさんいた。むろんそんな人たちは食べるのにも困るわけで、たった何百円、多くて千円やそこらで買収されたとしても不自然ではない。そんな時代だった。
安田講堂組のひとりは、卒業間際になって学校を辞めていった。
『男はつらいよ』の寅さんの義理の弟のように印刷工になったはずだが、かつての同級生仲間も、もう30数年音信不通とのこと。今どこで何をしているか、皆わからない。
大学卒、という学歴を捨て、いわゆるプチブルになることを否定して一介の労働者になることを選び取った彼は、正義を追求する、自分にも他者にも厳しい人だったのだろうか、と考えたことがあるが、本当のことは本人のみぞ知る。
そんなにカッコイイものじゃない、失望したり、意地はったり、いろいろあるさと、今会えば、還暦を前にして語るかもしれない。
あとのひとりはその後精神を病み、やはり30数年前に私と会ったときは、機動隊の棍棒で殴られて、あれから自分は頭がおかしくなった、と真剣な面持ちでしゃべっていた。この時のことを思い出すと、やはり今でも涙が出てくる。
私は大した友人でもなかったのに……。偶然会っただけだったのに。
闘争時、怖いほど鋭い目をしていた人が、まるっきり人が変わったようになっていたのが脳裏に刻まれた。
私にはとてもできなかったが、時代のうねりの中に自ら飛び込み、散っていった人たちだ。
連合赤軍の“総括”の陰には、こんな例が無数にあったのだと思う。
そんなことをしたり見つめたりしてきた私たちは、学校出てからもう38年。
自己批判せよ、と迫った潔癖感・正義感をもてあましながらも、人間関係を模索してきたと思う。
上記にあげた人たちも、悲しいことばかりじゃない、この30年をこえた月日の間、楽しいことや心から笑えることがきっとあったはずだ、と思いたい。
私たちはダブルスタンダードで子育てに失敗した世代だ、と残間えり子さんがいつかラジオで語っていたけれど、たしかにダブルスタンダードだったかもしれない、と私も思う。
もっといい成績を取れ、と無言のうちに子どもに要求する母親が、『あばれはっちゃく』が理想です」と公言して何の疑問も抱いてない様子が見え見えだったことなど、そのいい例だ。
はな垂れ坊主だったり、スカートの下のパンツが真っ黒けの泥だらけになるくらい遊び回った女の子だったり、冬、半ズボンの下に厚い股引をはいて寒さに耐え ていたり、ときにはその股引の上に厚手の靴下というかストッキング(それも木綿のストッキング……)をはかせられたりして、およそファッションとは似ても 似つかないような代物をまとった悪ガキども。
まだ貧しい昭和30年代を駆け抜けた、ごくありきたりの、男の子・女の子たち。
それが私たちだった。
長じて家庭を築き、子育ては児やらいだ、ということを忘れはしなかったか?
懸命に向かい合う子どもの中に、小公子・小公女を求めたりはしなかっただろうか? と自問してみる。
ダブルスタンダードというより、ダブルバインドというほうがふさわしいかな。
それくらい、子どもにとっては縛りになるものね。
要求に応えられない子どもも、親の無言の要求を我が身に引き受けて、自らを規制し縛りつける子どもも、その心と体は、悲鳴をあげてSOSを発する。
いい子であればあるだけ、親の言動や要求にいつの間にか沿うように自己規制して、自分で自分を縛り上げる。そんなことに、と驚くような些細なことにとらわれてがんじがらめに自分を縛り、見動きできなくなる子もいる。
体にいいものいいもの悪いもの、ねばならぬ、あらねばならぬ、等々で自分を縛るのだ。
親の愛を獲得するのにはいい子の条件を満たさないといけないと、強迫観念のように自分を縛る子もいれば、親の懐に見切りをつけて、どこかに飛んでいってしまう子もいる。どちらの子どもも、世界一の不幸を背負っているような顔をしている。
でもこの時縛られているのは子どもだけじゃない。親も縛られている。
人はよく、子どもの“でき”で親を評価する。
子どもには、それぞれ個性がある。要求の強い子、弱い子、努力をする子しない子。
個性だけじゃない。努力をして報われる子もいれば報われない子もいる。報われるときもあれば報われないときもある。
中にはとり立てて親が配慮しなくても、すくすくと努力家のいい子に育つ子もいるけれど、そんな子を持った親は、ラッキー。ただそれだけのこと。
誰でも、あらねばならぬ、という呪縛を解いて縛りから解放されると、憑きものが落ちたようにいい顔になる。
で、子育ては親育て。育った私が学んだこと。
人間関係はいい加減がいい。
子どもはそのまま、無条件で受け入れる。人にも多くを要求せず、ちゃらんぽらんな自分も許す。
きっと、それくらいでちょうどいい。
いきなりだけれど、水葉さん、傷つくのを怖れなくてもいい。傷ついて強くなる。
しんどいときは、人に支えてもらっていい。お互い様だから。
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*と、こんな人生観しかもてない私ですが、なんでもかんでもちゃらんぽらんでいい、というわけではありません。
「人間関係はいい加減がいい」という表現の中には、「いい湯加減」という言葉にある「いい加減」、good enoughを含ませています。