小林多喜二の『蟹工船』が日雇い派遣などで働く若者たちに受け入れられて読まれている、と聞いたのはちょっと前ですが、同時にマルクスを読む人も増えてきているのだそうです。

 中・高校時代はかなり読書に耽りましたが、私にとって小林多喜二の名も『蟹工船』も文化史上の言葉でしたし、周囲で読んだ、という話しはまず聞きませんでした。     

 マルクスの著したものも、断片的に知っているだけで読んだことはありません。
 イメージ的にはマルクスよりもウェーバーの方に惹かれましたが、ウェーバーも、妻マリアンヌによる伝記に加えてプラスアルファ的になにかを読んだぐらい、という少々情けない状態。

 まあ、それでも5年ほど前ロンドンに行った折りに、やじうま根性でマルクスのお墓に詣でてまいりました。
 1889年11月9日のベルリンの壁崩壊後相次いだ東欧諸国の共産党政権崩壊の余韻か、当時はマルクスの名を口にするのもはばかれるような雰囲気でしたね。

 いや、やっぱり哲学者としてのマルクスはすごいと思うよ、と同行者を説いて、友人たち3人と地下鉄の駅を降り、人に道を尋ねながら、緑の芝生に囲まれた静かな住宅地の横をひたすら上ってハイゲート・セメタリーを目指したものです。

 

           

 まるでロビン・フッドが弓を手にして出てくるような館の前を通り、左手の道をずっと行きますが、途中はもっと坂になってます。

 セメタリーの入り口には長~い灰色・ダブルブレストの墓守コスチューム姿で男性がひとり控えて、入園料をとっていたような記憶がうっすら。マルクスに関するCDまで売られてました。

 私たちの前を行く男女3人連れは花を手にしていて、どちらへ向かうのかと思っていたら同じ目的地でした。供えられている花束はその人たちが持ってきたもの。
  グローバリズムに浸蝕されることがまだそれほど表沙汰になっていなかった日本では、当時マルクスの名を出すのも、ましてや業績等に言及するのも馬鹿にされ るような雰囲気でしたから、地元民と思しき人たちが花を手にしてお参りしている姿を見て、あくまでも野次馬に過ぎない私でも、なぜかほっとしました。

 

 隣の小さなお墓は、たしかマルクス自身の子どもの、それも男の子のものではなかったかしら。

 マルクスと言えば大英博物館。正確に言えば、大英博物館のリーディング・ルーム。下の写真はよくマルクスが座っていたという場所。
 青の革張りデスク・トップが、とても作業しやすそうでした。
 

 コイズミ以来、痛みを押しつけられるのは自分たち庶民だけだ、と国民の多数が気づき、読む人も増えてきたとは、きっとあの世のマルクスさんも苦笑いでしょうね。

 あまりの経済放任は社会的な格差を助長・拡大し、世の中の矛盾は弱者にしわ寄せがいく資本主義経済に、社会福祉の考えを取り入れて政治を行うのは当たり前のことだ、という感覚は、戦後の日本社会一般に広く受け入れられていたと思います。

 それが、格差があっていい、いくらあってもいい。格差をなくしたら共産主義になってしまう、という日本会議の考えを大声で主張する人を目の当たりにしたときの驚きといったらありませんでした。
 はあ、そういう理屈になるのか?! と思わず脱力。

 格差否定、即共産主義、という極端から極端に走る思考回路を受け入れる頭の中はどうなっているのだろうか、と不思議に思ったことでした。

 そういえば、新自由主義は新植民地主義、と喝破したナオミ・クラインさんの論と併せて考えれば、時代が一気に100年も200年も前に飛んでいってしまいそう。

 そこから私たちはまたやり直さなければならないとしたら……大変な時代だ、と今更ながらに思います。

   
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