19日、偶然でしょうが、毎日と朝日それぞれに宮崎県の記事が掲載されていました。
朝日は「『限界集落』呼称どげんかせんと 『元気の出る名』 宮崎県が募集中」、毎日は「東国原知事 『体罰は愛のムチ』」です。
「限界集落」という呼び名は危機的な状況をよく表していると思うのですが。名前を変えるだけで問題そのものが置き去りにされたら、事態はますます悪くなるでしょう。
「体罰は愛のムチ。昔はげんこつで教えられたが、最近はできなくなっている。愛のムチ条令はできないか」
「宮崎県で『愛のムチ条令』や『愛げんこつ条令』はできないか。愛という範囲で条例化するべきだ」
と18日の県議会本会議終了後の記者会見で、議会で教育問題が取り上げられたことで知事が発言したのだとか。
去年11月の「徴兵制はあってしかるべきだ」もそうでしたが、この方がこうした発言をするたびに、なんとも嫌な気分になって、軽い男だな、と思ってしまうのです。
教育の場で、お前が悪い! とばかりに手を、あるいは拳を振り上げる……その行為は生徒への愛ゆえだ、相手を案じているからこそ、殴るのだ、と考える教師がいるのでしょうか。
今、ここで、愛を持っているなら殴らなければならない、と判断して生徒に向かう教師はいるのでしょうか。
どちらもおかしな話しです。
殴るのは腹を立てたからでしょう。カーッとなって思わず手が出た、ということでしょう。
それを「愛」で正当化し、相手を納得させ、より良い方向へ生徒を導く、と考える教師がいるのでしょうか。
成長期の私がこの目で見た教師の暴力、母親となり、運動会当日目撃した中学生を殴る蹴るした暴力教師、小学生が怖れた、生徒の両耳を持ってつり上げる教師、知り合いにこぼされた、ダイヤの立て爪を見せるように丸めた手で小学生をなぐる教師……
そのどれも、愛のために暴力をふるった、とはとても思えないものばかりです。
子どもの両耳を持ってつり上げる教師は、当時はやった吉岡たすくばりの語りで保護者を魅了した先生でもあるのですが。
大勢の保護者の前で中学生を殴る蹴るした教師は、その前も後もやはり問題を起こしてますが、ババ抜きのババのような扱いを受けて勤務先をかえながら、うやむやになっていたようです。
教師の暴力がなにかと問題になる社会でもそんな状態です。
直接教師が手を振り上げないような事例もいろいろとあるでしょう。
体罰は愛のムチです、生徒のためを思うならば殴ってもいいですよ、生徒を愛しているならば、積極的に殴りなさい、とでもいうのでしょうか。
いったいどんな条令を作りたいというのでしょうか。
