苛酷だなあ、と思ったのは朝早いニュースを見たとき。
 今回の東北の地震で被害にあった温泉施設の例があげられていました。施設そのものもさることながら、施設までの道が寸断されて復旧のめども立たず、営業できずに11人の従業員も解雇される、というもの。

 感想を求められてマイクを突き出されたマネージャーの男性が思わず涙ぐむのですが、こんな災害があるたびにこうした経験をする人たちがいるのだろうな、と気持も沈みます。

 東北の小さな町にとって、数少ない雇用の場であったようです。
 生活への不安を隠しきれない元従業員の女性の姿を見て、私が思い出したのは昭和30年代の日本でした。
 それもどういうわけか、「カッチャ9時運動」ということば。「カッチャ」とは「かあちゃん」のこと。

 横浜、神戸という大都市で育った私が、父の転勤で過ごすことになった新潟の学校でのことです。
 家庭科の授業中だったと思いますが、朝早くから夜遅くまで働く農家の女性も、せめて夜の9時には休んでもらいたい、そんな主旨の運動がある、という話しだったと思います。

 聞き慣れぬ「カッチャ」という言葉とともに、夜の9時になっても手足を休ませることができず、翌朝には早くから起き出して野良へ行かなければならないという農村の女性たちの話しがやけに胸に残り、その後もことあるごとに頭をかすめました。

 同じ頃、かあさんが~よなべ~をして、手ぶく~ろ編んでくれたあ、おとうは土間で、藁う~ち仕事、おまえ~もがんばれよ、という歌が流行りました。一昔前の話しだろうと、都会生活しか知らない私は当時思ったのですが、案外目の前の現実だったのかもしれません。
 ただし、おとうたちはすでに藁打ち仕事ではなく、東京に出て杭打ち仕事をしていたのかもしれませんが。

 神戸では、社会科で日本は貿易立国を目指すのだ、と習いました。産業を盛んにして、原料を輸入し製品に加工して輸出するのだ、それで日本は豊かになるのだ、と。
  高度成長を遂げてからでしょうか、どこの国でも沿岸はその国が大切にしているものに占められている……日本は工場群が沿岸を占拠している……日本にとって 一番大切なのは工業なのだ、と多少皮肉をこめて書かれた意見が新聞に載っていたのですが、この話しも妙に頭に残り、その後ことある毎に思い出されることに なりました。
 
 原油高から原料高、そして食料危機が叫ばれると、自分が幼い頃から目にしてきたそんな日本の姿が目の前に彷彿とします。

 農業よりも工業を選び取ってきたことが、結果として日本を豊かな国に導いた、というのは本当だろうか? と、この頃ときどき考えます。もっとバランスある発展はできなかったのだろうか?と。

 工業化を目指す私たちの国の首都は、そして大都市は、周辺の農村地帯から流入する人口を貪欲に呑み込んで膨らんでいきました。それが国策だったのでしょうね。

 それでも、当時の農村は同時に豊かさも享受し、鶴のマークのJALパックかばんを肩にかけて世界の観光地に繰り出す農協ツアーが盛況だったような記憶も。そうした場面を見るたびに都会で働くサラリーマンはほぞを噛んでいました。
 あれはいったい何だったのでしょう?

 そういえば農村地帯は、ずっと自民党の大いなる票田でしたね。
 たしかあの頃、税の不公平さを表すのに「クロヨン」という言葉が新聞紙面で踊って、自営業者や開業医、農家などがよく叩かれていました。

 作れば、そして仕入れれば売れたあの頃とは、日本の社会もがらっと様変わりしましたね。
 家の金は財布なんかには入れてませんでした。タンスの引き出しに裸で入ってました。引き出しを開ければ、子どもの私でもいつでも使えましたよ、とは親から小さなお店を引き継いだ、私とさほど歳のかわらぬ人の昔話しです。

 今、そんな商店は大型店舗に押されると同時に人の流れも変わり、守勢どころか劣勢の一途を辿ってシャッターを下ろす店が増えるばかりですし、大都市近郊の農村は別にして、地方の農業地域の疲弊がいろいろと伝えられます。

 その一方で、いつの世にもいるであろう成り上がりというか成金というか、時流に乗って成功する人たちもいます。でも、人材派遣業グッドウィルの創業者折口雅博氏といい、昨日逮捕されたNOVAの猿橋望氏といい、あのホリエモンといい、みな、えらく無邪気に金満生活に走りましたよね。
 それも他人の苦しい働きの上にあぐらをかくように。

 きっと己の才覚と努力でそうした境遇を手に入れたのだ、と思っているのでしょうが、それは己の才覚と努力‘だけ’で獲得したものだ、と勘違いしているのではないか、とよく思います。
 才覚と努力以外にさまざまな要素が都合よく働いて成功にこぎ着けるのでしょうが、何よりも人の力、つまり他人に助けられたところが大きいのではないか、と私は考えるのですが。

 たくさんの人の世話になり、時には迷惑をかけ、時には相手を踏みつけるようなことまでしてたどり着いた成功ではないでしょうか。

 そんなことも忘れて、ただ無邪気に己の利益のみを追求する人たち。
 あのCANONと同時に日本経団連の御手洗会長もそんな人だな、と思いました。

 そもそも新自由主義経済の考え方そのものが無邪気すぎるのでしょうか。

 市民社会の勃興期、産業革命を経てそれまで王侯貴族や僧侶の手に握られていた数々の力を己のものとした人たちが、無邪気に信仰した利益追求プログラムみたいですね。

 しかし新自由主義を推進してきた人たちはコイズミ・竹中両氏も含めて、己の利益追求に貪欲なばかりか、狡猾でもあるなあ、とはよく感じるところ。

  そういえば政権ほっぽり出しちゃった安倍シンゾー氏は、無邪気に“最高権力者”の座を楽しんでいただけのような気がしますし、現首相福田氏はその後始末に 追われる苦労を口にしながら、国民の生活不安に対してあまりに無邪気・無頓着すぎますね。それにサミットのホスト役を楽しみにしているのも、無邪気すぎる かな?

 結局、政治家の劣化は、狡猾さだけは維持しながら、無邪気・無頓着に権力を行使しているところに表れている、ということですか。

         人気blogランキングへ