お昼のニュースの後、漫然とつけっぱなしにしていると、画面は「ふるさと一番」とかいう番組に変わり、神奈川県相模原市の築120年になるという養蚕農家の建物を借り受け、蚕を育て繭を紡ぎ、機を織るカナダ人男性が登場しました。

 こうしたものを見ると、私はつい父の生家を思い出してしまいます。
 
 120年までには至らないけれど、築107年のかつての養蚕農家です。

   高窓外観

 外観は2階ですが内部は3層構造で、採光と換気のために高窓が設けられています。
 3階部分の床はすのこ状。この3階と2階が蚕室として使われました。

         屋根裏北側
     
      
            屋根裏西側 
 小屋組は自然木の曲がりがそのまま使われていて、それがかえって美しい。
 
                 高窓2
 
 養蚕をやめてから、もう数十年とは言わないでしょう。

 生きていたら130歳以上になる私の母方の祖母は機織りもして、母たち娘は自分の母親の織る布で着物を作ってもらっていました。

 などと郷愁に浸っているだけではだめですね、日本の農業。

 この家にも農業の後継者は育ちませんでした。子どもは大学を出てサラリーマンになり、そのまた子どもは、虫も殺さぬ都会っ子に育ちました。

 なぜ農業を継がなかったのか、って、やっぱり苦労している親を見て、嫌だったのではないでしょうか。
 この家の主婦は働きものでがんばり屋さんで、年寄りと病人を抱えながら、地を這うようにして夫とともに家を支えてきました。
 昭和30年代の農村はまだそれほど機械化はされてませんから、農作業は大変だったでしょう。
 労多くして報われること少なし、と子どもたちは思ったのかもしれませんし、また日本の社会一般の価値観も、農業に対して好意的だったとはとてもいえなかったと思います。

 そんな中で、農村で生まれ育ちながらも農村を出ていった人たちは、ずいぶん多かったことでしょう。

 高度成長期、農協さまご一行がJALパックのショルダーバッグを肩にかけて世界の観光地に繰り出す姿がよく報じられたものです。
 ターボ車が登場した頃には、サトウサンペイ氏がTURBOをTANBOにかけた4コママンガを新聞に書いて、豊かな生活を謳歌する農村を皮肉ってました。そんなマンガにギョッとして今だに記憶している私ですが、溜飲を下げた人もいたことでしょう。

 圧力団体となって幟を立てた農家が高い生産者米価での買い取りを要求して国会周辺で座り込みをする姿は毎年恒例の光景になってました。都会で生活するサラリーマンたちにとって、そんな農家の姿は苦々しいものに写っていたのかもしれません。

 そうした高度成長期の豊かな農村、日本の歴史が始まって以来、やっと一息ついたような農村の暮らしぶりが、いつのまにかまた違ったものになってきてしまった……荒廃が伝えられ、限界集落が問題になり、農業従事者の減少と食料自給率の危機が叫ばれるようになった世の中。

 何がどうなっているのでしょう? 何がいけなかったのでしょう?

  これについてはまたあした。

     
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