とむ丸の夢

歴史March 15, 2008 9:42 pm

うわあ、と思わず感嘆の声が上がりそう。

 常石先生の「日本現代誌」に、天皇機関説を唱えた美濃部達吉関連の文書が写真で載っていました。
 米国議会図書館の法律図書館で見つけたそうですが、この「各 大學 ニ 於ケル 憲法 學說 調查 ニ 関スル 文書」を1935年に作成したのは「文部省思想局」……なるほど、戦前の体制ではこうした部局があったのか! と、また妙なところで感心してしまいました。

 表紙をめくった写真もいっしょに載っていますが、「調査ノ性質上私文書」とあります。
 調査ノ性質上私文書……なんじゃこれ? という気持でちょっと検索してみると、

刑法などで公文書としているものは、公務員が作成した文書のことですが、ここで公的文書としているものは、公文書ではなく、一般の会社などで作成している文書のうち、複数の人から公式な文書と認められたものを示しています。
これに対し
私的文書とは、個人的に使用する目的で作成されたものであり、メモや公的文書を作成する過程で作成した下書きなどを示しています。
会議録などを会議メモと表題を付けていても、これを複数の人に配布しているような場合は、公的文書とみなせます。
実験ノートなどは、考え方についていろいろとメモを書くものであり、私的文書のようですが、業務として研究を進めている場合は、特許権などの関係から知的財産の一部として公的文書としなければなりません。

 ……

公 的文書はその組織の共有書類として、誰でもが利用できるように(もちろん機密文書の場合は必要なアクセス制限をした上で)保管する必要がありますが、こ の文書の共有化が進んでいない場合、公的文書を個人として保管することになります。このような状態の場合、私的文書と公的文書が混在することとなり、他の 人は利用することが事実上不可能となるため、公的文書であっても私文書化してしまいます。
公的
文書を共有の場所で保管しなければ、せっかくの財産を無駄にすることとなります。


 等々と、ファイリングの説明にありました。

 本来なら「文部省思想局」という明らかにお役所が作成した文書ですから公文書にすべきなのでしょうが、“諸般の都合で”私文書とした。私文書であれば作成者個人の責任で作成され、保管される。

 実際にはおそらく思想局内部で共有されていたのでしょうし、必要とあらば、いつでも他の役所、たとえば内務省の特高警察の求めに応じて開示したのだろうと推測します。
 それでも問題になったときの言い逃れとして“私文書”としたのかもしれません。実質は公文書なのに。

 文部省思想局は、こちらによると、1934(昭和9)年にできたもののようです。

昭和3年(1928年) 3.15共産党員大検挙(3.15事件)
            
  4.17文部省,学生・生徒の思想傾向の匡正,国民精神作興を訓令〔文訓5〕
             9.11閣議,思想善導施設費約15万6000円余を文部省の責任支出とすることを決定

昭和5年(1930年) 4.4田中文部大臣,各帝大総長を招き思想問題につき協議(~4.5)
昭和6年(1931年) 7.1文部省学生思想問題調査委員会を設置(昭7.5.2学生生徒左傾の原因及対策を答申)

昭和7年(1931年) 12.-学生団体皇道会を結成
              -.-本学における左翼学生運動,本年をもってほぼ終息

昭和9年(1934年) 
6.1文部省思想局を設置
    


 文科省のwebサイトでも、「文部省機構の改革」に記載があります。
 冒頭でいきなり、大正6年から昭和11年にかけては文部大臣の更迭が頻繁に行われ、その数が17名にのぼることにふれていますが、1917~1936年のことですから、大臣1人あたりの任期は平均で1年ちょっと。

 その17人の中で私が知っている名は、犬養毅、鳩山一郎のふたりぐらい。
 犬養毅が文相になったのは第2次山本権兵衛内閣ですから1923~24年のことで、まだ時代は大正。
 鳩山一郎は、犬養と斎藤実の両内閣で文相。1931~34年のこと。この間、京都帝大の思想弾圧事件、滝川事件が起こっています。

 京大総長に滝川の罷免を要求したのが、この鳩山文相ですが、拒まれて、文官分限令により滝川の休職処分を強行。
 このことが戦後のGHQの公職追放指令を受けたことに関係しているとか。

 ちなみに当時の鳩山家の暮らしぶりを彷彿とさせる、こんな記事「吾家の家計簿」はいかがでしょうか。
 賢夫人の誉れ高い薫の面目躍如、といったところですが、5人家族に使用人4人の典型的ブルジョア家族の生活がうかがい知れます。

 サイトの管理人さんが今日の経済に換算しておもしろい比較をされていますから、興味のある方はぜひご覧ください。

 で、一般中流庶民の家庭なにがし家が月収44万8千円に対して鳩山家は459万。
 これをすごいなあ、と思うか、なるほど、と思うか、いかがでしょうか。

 この鳩山薫が一郎の妻にして、数々の迷言を呆れるほどに繰り出す邦夫氏、超党派の国会議員らで作る「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根元首相)前原誠司羽田孜藤井裕久田名部匡省氏らと共に参加して顧問に就任した由起夫氏のおばあさんにあたります。

 う~ん、旧体制アンシャンレジーム志向の兄弟のルーツを見た! という気がします。

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歴史September 10, 2007 7:40 pm

ガンで入院中の知人の見舞いに夫とふたりで行ってきました。
 喉頭癌で手術をされたのが4、5年前だったでしょうか。
 今春、腰が痛い、と言われて入院したときには、すでにガンは全身に転移していました。
 その時私はお会いしていないので、病状も夫から聞くばかりでした。

 そして今回の入院。
 やせこけた土色の顔に内心驚きながらも、当たり障りのない会話が続きます。
 絞り出すような声に耳を傾けながら、病人の表情と部屋の様子をうかがいます。

「やっと重湯が食べられるようになったよ」

 なるほど、棚には柔らかく伸ばした梅干しの果肉の瓶詰め等が並んでいます。
 想像してはいましたが、実際に「塩酸モルヒネ」の点滴の用意があることに軽い衝撃を受けますし、血液が容器に入ってぶら下がり、管を流れる様子を見るのもかなり辛いものがありました。なにしろ、輸血を目の前に見るのは初めてでしたから。
 もちろん周りには高齢者が多かったので、救急車に何度も乗り、病院通いが日課だったこともありますが。

 病人は私たちより一回り年上で、国立大学の学長を2期まで務めた方。私の身近で数少ない、“歩く辞書”のお一人です。

 帰り際、以前聞いたお話を数日前に想い出していたので、切り出してみました。

「先生は、『男女7歳にして席を同じうせず』の『席』は『床』、つまり『寝床』のことだ、といわれましたよね」。

「そうだ。草かんむりがあろうとなかろうと『席(席)』と『蓆(むしろ)』は音が同じでね、時々入れ替わったりする」。

「『乱』だってそうだ。『みだれる』の意と同時に「おさめる」の意がある」。

「あっ、知ってます。『高場乱』の名は『おさむ』ですよね」。

 ここから幕末期の福岡藩の勤王の志士について、ひとしきり話しがはずみます。
  
20051116-siseki201.jpg

 ちなみに高場乱は幕末から明治にかけての儒学者で女性です(↑ 上図)。
 当時全国的に有名だった福岡県須恵町「田原眼科」の家の出で、現在の代々木ゼミナール近くの地に私塾を開き、多くの門弟を抱えました。これがいわゆる「ニンジン畑塾」。
(ニンジン畑だったところだったのでそう呼ばれたわけですが、この場合、もちろんニンジンは朝鮮ニンジンのことだったと記憶しています)。
 そこで荒くれものの福岡の青年たちを教え、最後の弟子で有名なのが、あの頭山満でした。

 こうして高場乱から話しは平野国臣、野村望東尼にまで及びます。

 先生の目にも力がこもってきました。

「獄から処刑に向かうとき、『行くぞおー』と平野国臣が同志に大きく声をかけていったという話は、切なかったですねえ」と、私。

 そんな話を交わすうち、高場乱の知識を得た本が先生と私とでは違っていたことが分かりました。

 結局、

「書名と出版社をメールで知らせて。本屋に注文するから」

 という話に。

 食が通らずすっかり痩せて1人で立つこともできなくなり、ベッドの上でリハビリをする病人が、新たに本を注文して読むという。
 うれしかったですねえ。

 ついでに、今回の有権者による「参院の乱」が、私たちの国が独立国として国際社会の中で歩むきっかけになるように、そしてこの国がうまく「おさまる」ように願いたいものです。
 

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歴史May 31, 2007 3:27 pm

人工樂園さんからのTBで、25日に行われたという下関市の戦時訓練を知りました。

 驚いて下関の友人に電話をしましたがちょっとつかまらず、この件はお預け。
 六連島は、潮の速い関門海峡で、水先案内を受けるまで停泊する小さな島だ、とは釣り好き人の話し。
 近いうちに下関に行ってみようと思っていますが、その時は、またご報告します。

 なにしろ今、手を離せないことを抱えて、どうにかこうにかブログの方は更新していますが、とてもじゃないが下関までは行ってられない、という状況です。

 さて話しは変わりまして、ローマ史を読んでいると、それも興隆期の歴史ではなく衰退期の歴史を読んでいると、日本の現状が連想されて、なんとも複雑な思いに駆られます。
 
 帝国が徐々に蝕まれて崩壊していく様が、書物にはいとも鮮やかに描かれていますが、さて、当時のローマ市民たち自身は何を想い、何を感じていたのだろうか、と思いをめぐらしながら読み進めていくのですが……。

  暗愚の皇帝、私利私欲と保身に走る貴族や宮廷官僚、 パンとサーカスにうつつを抜かす民衆、帝国内の結束に利用されて絶えず宗派間の教義争いを続けながら も最後には帝国で唯一の勝利者となる(キリスト教という)宗教など、いまの日本の世相と重なるところも多く、少々ペシミスティックな気分になってしまうと ころがイヤですね。

 西方世界における帝国崩壊の序章がすでに始まっている5世紀のローマ市で、一番の金持ちは教会でした。政治的な理由 も含めて皇帝たちには数々の高価なものを寄進され、信徒たちからも献金を受け、さらには税も免れて、豊かな所領を持ち、教皇たちはずいぶんと豪奢な生活を 送っていたようです。

 ですから教会は、いわゆる‘蛮族’たちの格好の餌食にもなるわけですが、不死鳥が甦るように、また財を貯えるわけです。
 国破れて、教会有り、というより、国破れて‘宗教有り” というところでしょうか。

 それに、帝国が衰退していくと、帝国内で“寛容性”がどんどん失われていきます。
 それがまた悪循環を呼び、さらに非寛容の精神が国を覆う。
 そこであたら失わなくてもいい人材を失ってしまったり……。

 なんだかこれも今の日本と重なります。

 非寛容と排除の論理が吹きすさぶ世の中の危険性を感じます。
 陰では得をして笑っている人もいるでしょうに。

 議員の劣化、人材の枯渇…… 厭な材料がたくさんありますが、それでも諦めてはいけない、と自分で自分に言いきかせなくては。

 手が空いてから、記事もゆっくり書きますね。

 
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 岸がつき、小泉がこねし改憲もち、座りしままに喰らうシンゾー

歴史March 10, 2007 9:01 pm

 びっくりしました。戦後、旧軍将校の間でクーデター計画があったとは。
 26日までに解禁された米中央情報局(CIA)の文書で、旧日本軍参謀本部の作戦課長だった服部卓四郎ら旧日本軍幹部らが1952年7月、当時の吉田茂首相の暗殺計画を立てていたことが分かったという報道です。
hattoritakushirou.jpg

  この年10月31日付の文書によると、服部氏ら6人のグループは、吉田首相が国家主義者らに敵対的な姿勢をとっているとして、同首相を暗殺し、首相を鳩山 一郎氏に代えるクーデター計画を立てていた。 しかし、服部氏の友人で元陸軍参謀の辻政信氏が「クーデターを起こす時ではない」などと説得。グループは計 画実行を思いとどまったが、政府高官の暗殺まで検討した、というのですから。

tsujimasanobu.jpg

 写真上は服部卓四郎。下は辻政信。
 2人とも天保銭組なんですね。つまり陸大出。しかも恩賜組陸軍エリート
 胸いっぱいに勲章を着けた誇らしげな姿が象徴的です。

 陸士・陸大出は青春期を寝食共に過ごし、その心情的結びつきは私の想像を遙かに超えそう。同期は学業成績できっちり序列ができ、また師弟の結びつきもことのほか強く、互いに引きたて合いかばい合って、陸軍中枢に君臨する。

 お金はなくとも己の才覚、といっても単に陸士・陸大での成績だけですが、それだけで出世の道を極め、権力を握り、兵を、軍隊を、好きなように動かす。ただし、ノモンハン、ニューギニア、ガダルカナル等々、無謀な作戦を強行し、負け戦を重ねる。

 その戦前・戦中の栄光を忘れられない結果のクーデター計画でしょうか。

 辻はバンコクで敗戦を迎え、イギリス軍の戦犯訴追を怖れ、僧に変装するなどして逃げ、昭和23(1948)年に帰国。戦犯解除となる1950年まで逃避行を続けました。
「腹を切ってお詫びするのが道だがアジアの中で民族の再建を図るため」逃亡した、と強弁しているようです。理屈は後からいくらでもつけられますね。

 逃走中の記録「潜行三千里」はベストセラーになり、52年の衆院選では地元の石川県からトップ当選を果たしたというのですから、またまた驚き。日本の政治の現実をよく表しています(泣)。

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歴史 12:54 am

菅総務相の脅しが利いたのか、最近のNHKの報道番組はますます見てはいられない、聞いてもいられないものになってきました。
   関西テレビのデータ捏造問題をきっかけに総務省が放送局への監督を強化する法改正を検討していると報道されています。「報道の自由は当然だが、事実と異なったことを報道する自由はない」と菅総務相は16日述べ、改正に改めて意欲を示したそうです。

 公共の電波を正しく使ってもらうという責任は総務省にある、ともいったそうですが、「(改正しても)業務改善命令を出すつもりはない。自主的なものを検討している」とつけ加えています。
「自主規制」を狙っているわけです。
  今でも十分すぎるほどテレビ局・新聞等の報道機関は自主規制しているのに、まだまだ足りないというのでしょうか。まだまだ貢ぎ足りない、まだどこかに隠し ているんだろう、残らず召し出せ、とでも言いたげな何ともあこぎな強欲ぶりに、百姓と何とかは絞れるだけ絞れ、という言葉を思い出します。

  多分、人間のこうした欲望、とりわけ為政者、政治にたずさわるもの、人を支配していると思っている人たちの求めるさらなる要求は、際限がないのです。いつ まで自分たちがその地位にいられるか不安に駆られる。権力の座にいる人は、自分がそこから滑り落ちるのが怖くてたまらない。
 疑心暗鬼の目を周囲に注いで、さらなる忠誠を求めるのです。

 と、腹ばかり立てているのもおもしろくないので、話題を変えて、昨日の桃太郎のエントリーで出てきた「若者宿」について、少々説明いたします。

 明治5(1872)年の学制発布以前の日本では、子供たちはどのようにして大人になっていったのか考えるとき、この若者組はどうあってもはずせないもの。
 当時、人口の85%を占めた農漁村の人びとは、支配層の持つ価値観、文化とは離れたところで生活の文化をつくり継承し、子育ての習俗を持ちました。

 幕藩体制下の過酷な統治にあって年貢等の支配者の要求に応えるために、ムラは村極(ぎめ)や村法を定めて連帯責任を確認。これを全うできない場合は、赤ん坊なら間引き、成長しては勘当・旧離を届け出て人別帳から外しました。

 一人前になるとはそうした村の構成員の一員になることであり、単に直系家族にとって意味があるだけでなく、ムラという共同体にとって重要な問題だったのです。ですから「若者組」とは社会的訓練として体系化されたムラの公的制度ともいえるわけです。
 
 祭礼や芝居興行を企画するのも若者組の役目でしたが、一揆や打ち壊しの主力となったのも彼等であり、漁村にあっては海難救助の任にもあたりました。
 
  夕食後若者宿に集まり、時には娘宿に夜なべ仕事を手伝いに行ったり、夜ばいに行ったりして朝までそこで過ごします。地方には高度成長期前までこの夜ばいの 風習の残る村もあったようで、僻地に赴任した新卒の女性教師をこれから守るのも同僚教師の仕事だったと聞いたことがあります。

「質朴にして親切」だが「怠惰遊蕩の風」は逃れがたく、「村芝居に祭文読み、夜ばい」が好物だと明治の新聞に揶揄されたムラの住民たち。
  ソフィストケートされた(爆)現代人は当惑するばかりですが、若者組は、もちろんこんなことだけをしていたわけではありません。大体15歳で加入して結婚 まで、あるいは結婚後も最長42歳まで共に過ごすわけですから、宿の仲間はさぞ結束が固かったことでしょう。そんな結束がムラの運営で大きな力を発揮する のはわかりますね。

 ヨーロッパにも同様な夜の集いヴェイエやキルトガングという風習があったといいますから、公教育制度以前の教育としては、けっこう普遍的な形なのかもしれません。

 このムラにあった若者組が、やがて官制の青年団へと再編成させられ、それの完了が大正末期。大正15年に創設された青年訓練所は主として軍事訓練を施し、これが後に実業補習学校と統合され、男子の義務となります。

歴史 12:46 am

イラク建国 「不可能な国家」の原点
 ここ数日間読んでいた本です。著者はファクタ編集長阿倍重夫氏

 帯には「イラクの戦後復興はなぜ泥沼に陥ったのか」とありますが、書かれている大半は1921年のイラク建国前後の舞台裏です。
 イラクの部族社会に根回しをして国境線を引いた1人のイギリス女性ガートルード・ベルを中心に、「アラビアの」ローレンスや個性豊かなイギリス諜報局の面々が絡み、ベドウィンの雄イヴン・サウードが、そしてアラブ随一の名家ハーシム家から出て初代イラク国王となったファイサルが登場します。

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    ↑ ガートルード・ベルと(アラビアの)ローレンス
  
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 20世紀初頭、瀕死の大国オスマン帝国のトルコにビスマルク後のドイツが触手を伸ばす。当時、現在のイラクにあたるメソポタミア地方はこの帝国の一部。富の源泉インドを領有し、ペルシャ(イラン)南西部の油田に利権を持つイギリスは、ヨーロッパとインドを結ぶ海路を握っていた。

  ドイツは、ベルリンからビザンチウム、バグダード、クェートまでをつなぐ鉄道を敷設し、ペルシャの族長たちをけしかける。強欲なイギリスに分け前をやるこ とはない。やつらを放逐して、石油のすべてを自分のものにしろ、と。これを、族長たちは逆手にとって、イギリスの採掘料をつり上げようと、駆け引きに使 う。

 これに対してイギリスはあらゆる策を講じようとして、2枚舌どころか3枚舌を使う
  1枚目は第一次大戦勃発直前の外相とトルコとの間のアラビア半島を南北分割する秘密合意(1914年6月)。(これ以外にもアラブの反乱の論功行賞として ハーシム家のフサインに自治権を与えるという約束を1915年7月~1916年3月の書簡で明言していた……4枚舌?)。

 2枚目はロシアの10月革命の結果暴露された「サイクス=ピコ協定」(1916年5月)。これは大戦後のオスマン帝国領の分割を約束してイギリス・フランス・ロシアとの間で結ばれたもので、メソポタミアはイギリスの保護領だった。

 3枚目は外相がロスチャイルド卿との書簡の中でユダヤ人国家の建設を約束したバルフォア宣言(1916年11月)。当時アラブの現地で汗を流すベルはこの宣言を知り、「いっさいの現実に目をつぶる、まるっきり机上の空論」と吐き捨てるように言う。

 アラブの古老から、いったいどの公約を信じればいいのか問われたローレンスは、相矛盾する文書のうちで、一番日付の新しいものを信じなさい、と答えている。
 1917年3月、バクダード陥落。オスマン帝国はメソポタミアを失う。ベルは占領地で新国家建設の青写真を描く作業に夢中になるが、そこにサイクス=ピコ協定バルフォア宣言が影を落とす。19年のパリ講和会議でベルとローレンスは、領土と油田の権益しか眼中にない政府首脳を前にして手を組んでアラブの将来のために奮闘する。が、中東を英仏の委任統治領にする以外何も決まらない。

 アラブ国家の樹立を急ぐベルはバダードのスンナ派長老を訪ね、その助言にほぼ従ってイラク統治政策の骨格をかためる。当時イラクの総人口280万人中150万人がシーア派だったが、当面の治安のために都市部の裕福な少数派スンナ派に依存して、多数のシーア派を封じ込めることにした。

 帝国としてイギリスが生き延びるためには、自発的な政府と行政を支援するか設立するべきだ、とベルは考える。しかし、本国政府も現地の民政長官代行も耳を貸さず、民政移管は一向に進まない。
 19年の暮れ、騒擾が発生。20 年4月、英仏の両国は旧オスマン帝国領アラブの分割を決め、メソポタミアとパレスティナはイギリスの委任統治領になる。そこでアラブに暴動が起こる。シー ア派のイスラーム法解説者たちがジハードを呼びかけ、ラマダーンが始まるとスンナ派とシーア派の信徒たちが結束しはじめる。イラク全土に流言卑語が飛び交い、族長たちは反乱密謀を凝らす。

  メソポタミアはイギリス軍と暴徒の凄惨な内戦に突入し、一方で野心満々の名望家の息子が己をメソポタミアの王に推戴させるべく陰謀を巡らす。この間、数百 人のイギリス人の犠牲者が出て、大戦が終わったというのに多額の臨時出費がイギリスの国庫を直撃する。けれどアラブ人の犠牲はその数十倍、1万人を超えて しまう。

21世紀初頭の米国の躓(つまず)きとこれはよく似ている」と阿部重夫さんは言う。「専政の重い鉄蓋をあけたとたん、沸騰しはじめるメソポタミア。異邦人には見えないこの国の「地下」に、どんなマグマが隠れているのだろう」とも。

 21年、新しい高等弁務官の着任と共に民政移管は実行に移され、11月にはスンナ派主導のアラブ人の暫定内閣が発足する。イラクとペルシアの国境線はベルが引き、スンナ派とシーア派は再び分断される。
 イラクの統治はイギリス人顧問団と王家とスンナ派にゆだねられ、アラブ系の族長たちは、ペルシア系が優勢なシーア派のイスラーム法学者たちへの反感を煽られる。
 
まさに分断して統治せよのとおり。

 21世紀のイラク、今年の1月29日シーア派の聖地ナジャフでイラク治安部隊と駐留米軍が交戦した相手は、シーア派の聖職者殺害を計画するスンニ派の武装勢力だったとCNNは伝えている。
  が、シーア派そのものもまた分裂している。サッダーム・フセインの政権と対峙しなかったシスターニー師やホエイ師を許さない勢力が存在しており、そのひと つが、私たちもたびたび耳にしたムクタダ・サドル師を支持するグループだ。彼の父親は、サッダーム・フセインの刺客に殺されている。

 この分断と分裂の状態を「近代国家の前提となる均質性」が欠けていると、阿倍重夫氏は見る。
 
 21 年3月、時の植民相ウィンストン・チャーチル、ローレンス、ベル、高等弁務官コックスがカイロに会し、新国家の国境を決めた。クルド人の多い北部、正統ス ンナ派のアラブ人の多い中部、シーア派のアラブ人の多い南部、さらにそこにペルシア人、ユダヤ人、ネストリウス派キリスト教徒といった少数派が入り込んで いた。
 中部と南部だけでは反抗的なシーア派が多数を占めて、御しやすいスンナ派が劣勢なるということで、ベルは3地域を一括して、さらには北部の油田の権益も考慮しながら地図に国境線を書き入れる。クルド人の住む北部は分離すべきだ、というローレンスの意見はベルに一蹴された。
 イラク南部とクェートとの間、砂漠の空白に中立地帯の線を引いたのもベルだった(1923年)。
 
 ベルの画策で実現したファイサルによる王政は、1958年の軍事革命で幕を閉じた。

初 めは傀儡アラブ人王(ファイサル1世のこと)政、次はコミュニズムと結託した軍事独裁、そして汎アラブの疑似社会主義政党(バース党)独裁、そしてサッ ダームの個人崇拝の恐怖政治……と強権支配が続いたのは、部族制の根強いこの地では近代西欧型の完結した国民(民族)国家が不可のだからだ、それでもイラクが国家として存立できたのは、はじめはベルやローレンスの背後で「インドへの回廊」を守ろうとした英国の意志があったからであり、1970年代の石油危機から湾岸戦争までは冷戦の盾や反ホメイニーの防波堤として米国が必要としたからである。
 
 今回のイラク侵略戦略を立てた超大国米国の政権中枢やその追随者たちは、ベルやローレンスが経験したような挫折と懊悩にある内省を驚くほど欠いている。ベルが設計したキメラ(混在)国家が無理なら、イラクを解体して国境線を引き直さなければならないはずなのに、国家の原点に帰るだけの構想も資源もない、と阿倍重夫氏は断じる。

 日本の戦後をモデルに考えて、イラクに期待を裏切られたブッシュのアメリカ。

 ひるがえって日本は先の大戦に敗れたばかりか、今も忠実に「アメリカからの改革の要望」に応え続ける。イラクにあるマグマが私たちの国にはないのだろうか?